あの日見た夢を追い求めて・・・(青年海外協力隊員エルサルバドル柔道指導報告)
1.協力隊への志望動機
私は、小学4年から父の影響で柔道を習い始め、中学、高校、大学、そして1997年、千葉県警察官を拝命し、2005年までの8年間、千葉県警察柔道特別 訓練員として全国大会初め各種大会に向けて優勝を目指し稽古に励んできた。この20年間どんな時でも常に夢は大きく持ち、その夢に向かって自分なりに精一 杯努力してきたつもりだった。
しかし、結局は納得のいく結果は出す事が出来ずに、その夢は叶うことなく監督から肩を叩かれ現役を退く形となった。勿論勝負の世界、弱者は去らなければい けないことは重々承知だった。しかし、私自身このまま夢を諦めて次へ進むという事がどうしてもできなかった。柔道は勝負に勝つということを前提にやってき たわけだが、果たしてそれだけなのであろうか?柔道とはもっと広く、もっと奥深いものではないのではないのだろうかという疑問も持ち始めていた。そんな 中、目に飛び込んできたのが、「青年海外協力隊」という募集であった。「これだ、これしかない、このチャンスを逃したら一生後悔する。」私は、一度は諦め かけていた柔道家の夢を海外の柔道家達ともう一度追い続けたい、柔道を外の世界から見つめ直してみたい、そういう思いで、職場、家族の理解を得て協力隊員 へと挑戦する事が出来た。
2.青年海外協力隊員として
青年海外協力隊について簡単に触れておきたい。「青年海外協力隊」とは日本政府が行う政発援助「ODA」の一環として、外務省が管轄する独立行政法人国際 協力機構「JICA」が技術協力を目的として実施する、海外ボランティア派遣制度である。募集年齢は20~39歳までで、派遣期間は2年間、家族がいると しても連れて行くことが出来ず、単身赴任としての派遣となる。では、技術協力といって具体的にはどういう活動をするかというと、派遣された国(世界約80 カ国)に現地の人々と共に生活し、現地の言葉を話し、相互の理解を図りながら、技術、知識を活かしながら発展途上国のよりよい国づくり、人づくりを目指し ていくものである。活動分野も多岐にわたり、農林水産、加工、保守操作、土木建築、保健衛生、教育文化、スポーツ、計画、行政の分野などがあり、約120 の職種がある。そして、協力隊員候補生として合格が決まると約70日間の派遣前訓練が福島県(二本松市)長野県(駒ヶ根市)で、派遣国によって振り分けら れ実施される。派遣前訓練とは、赴任国での公用語を集中的に学習するほか、協力隊員の理念、国際協力、異文化理解、赴任国事情の把握などを学び、充実した ボランティア活動が出来る様に行われるためのものである。
さて、隊員候補生として無事合格し、期待に胸を膨らませながら臨んだ長野県駒ヶ根での派遣前訓練ではあったが、その訓練は私の想像を遥かに絶するものであ り、何と言っても辛かったのが語学訓練だった。私の派遣国エルサルバドルは言語がスペイン語なのだが、英語を除く他の隊員の派遣国の言語(フランス語、ベ ンガル語、シンハラ語、ウルドゥ語、ネパール語)よりかは比較的簡単とされていた。しかし、現実にはそんなことは一切なく、周りの人よりも何倍も記憶力が 劣る私は毎日の授業時間(5時間)プラス、授業での宿題をこなす為にその時間より更に多い(5~7時間)勉強時間を要していた。授業内容は本当にハードな ものだった。しかし、それは当たり前の事である。何しろこのたった70間の訓練、そして、現地での1ヶ月の訓練を終えたら、派遣国で現地の言葉のみで2年 間生活しなければならなからだ。当然通訳など一切ない、危険な目に遭遇した時、あの単語一つさえ知っていれば命が助かったと言うケースも過去にあったとい う。訓練所長は、「言語は自分の命を救う為の最大の武器である」といっていた。本当にその通りだ。だから苦しい授業にも皆必死に耐えた。
終了試験前に差し掛かった時には、隊員の中には授業についていくことが出来ず、泣き出す者も何人もいた。朝のランニングの時間、廊下ですれ違う時、風呂に 入る時でも皆、経を唱えるかのように繰り返し口にして単語を覚えていた。一週間、派遣国の言語以外の言葉を口にしてはいけないという週もあった。スペル一 字間違えて書いてしまっただけでも、「その一字を甘く考えすぎている、その一字間違えただけで全く意味が通じなくなるんだ!」と、先生に激怒されたことも しばしばあった。とにかくこれでもかと言うくらい語学では追い込まされた。そして、それだけならまだしも、毎週のように行われた予防接種(計10本)と、 朝の急なアップとダウンしかない坂道3キロメートルのランニングが、毎晩寝不足で弱った体には容赦なく応えた。それでも、真夜中の休憩の一時、窓の外から 眺める満天の星空を見上げては、エルサルバドルの柔道家達と稽古している事を常に思い描いていた。気がつけば、この過酷な訓練によって私の派遣国エルサル バドルに対する想いがより強く、確かなものになっていった。
かくして、語学最終試験をクリアした私は、その10日後、2006年3月27日から2008年3月26日までの2年間、エルサルバドルでの活動をスタートする事となった。
3.エルサルバドル共和国
「エルサルバドル」という国名を聞いて、「あー、あの国か」とピンとくる人はどれ位いるであろう?恐らくごく僅かではないであろうか。私自身も合格通知が 届き任国「エルサルバドル」と書かれてあったのを見て、「一体何処の国だ!ここは?」と思ったのが正直な感想だった。職場の上司にも派遣国が決まりました と国名を告げても、必ずといっていいほど次の日に返ってくる国名は「お前が行く国エクアドルだよな?」だった。そこで、この文を読んで頂いた機会にエルサ ルバドルという国を是非知って頂きたいと思う。エルサルバドル(正式名称 エルサルバドル共和国)はアメリ大陸中央部(中米)に位置している国であり、そ の名前の意味はスペイン語で「救世主」と言われている。しかし、名前と裏腹に実に悲惨な歴史的な背景があり、1980年から1992年までの間には、内戦 が行われ死者7万5千人を出し、2001年には大震災に見舞われ約千人もの命が失われた。
エルサルバドルの位置関係は、隣国が北西にグアテマラ、北と東にはホンジュラス、南と西には太平洋と面している。人口は、約687万人(2005年)、面 積は、21、040平方キロメートルで日本の四国とほぼ同じであり、カリブ海諸国を除いては米州大陸国家では最小ではあるが、人口密度では米州最高を誇っ ている。地方行政区分は14の県に分かれている。首都はサンサルバドル県、私の2年間の活動はこのサンサルバドル県が主であった。日本との時差はマイナス 15時間、公用語はスペイン語で、宗教は伝統的にローマ、カトリックが主である。気候は熱帯気候であり、雨季(5月~10月)乾季(11月~4月)にはっ きり分かれている。しかし、地域によって気温は大きく異なり、首都サンサルバドル県は海抜690mの高地にあり、年間を通じて低湿で凌ぎやすいのだが、海 岸地方だと日本の盛夏のように蒸し暑い。首都に住むエルサルバドル人が地方都市を表す時のゼスチャーとして、額の汗を振り払うという仕草を見せるがそれも 十分頷ける。食文化は、トウモロコシを中心としたものが特に多く、エルサルバドル発祥であり代表的な食べ物が「ププサ」である。エルサルバドル風お好み焼 きとでも言っていいのだろうか、円形にしたトウモロコシの生地の中に、チーズや豚肉やフリフォーレス(小豆の甘さがないの)などを包み込み、熱したフライ パンで焼き上げるといったものだ。帰国して2ヶ月経つが、残念なことにこれといってエルサルバドルの料理が恋しいと感じたことはまだない・・
それから風俗、習慣であるが、スペイン統治から独立を果たしたラテン文化であり、いわゆる「ラテン気質」や「ラテン風」といったものを強く感じられるかと は思ったが、意外にもそれほどではなく、陽気度は他国に比べたら低い。しかし、音楽に合わせて自然に踊る姿は、さすがに日本人では決してまねの出来ないも のを感じた。それからエルサルバドルは中米国の中でも珍しくに真面目で勤勉であり、他国からは「中米の日本」と言われているそうだ。これは私自身の2年間 の活動でも随所に頷ける部分があった。しかし、その一方で治安の悪さも感じざるを得ない。犯罪にあっては武装集団による店舗襲撃、強盗、殺人等の凶悪犯 罪、または盗難、置き引きなど一般犯罪もとても多い。その中でも特に犯罪の中心となるのが青少年犯罪組織「マラス」の存在だ。青少年だからと言って甘く考 えていたら大間違いだ。彼らは通常、特定のエリアに生活しているのだが、万が一でもこの集団に手食わしたとしたら、無条件で彼らの指示に従うしかない。そ の場で何とかなると思い抵抗して逃げ切ったとしても、彼らは必ず復讐してくる。現地警察官でも逮捕の時には必ず覆面をしている。彼らに顔を覚えられたら必 ず復讐され殺されるからだ。今考えてもぞっとするが私も、けん銃で射殺された遺体を3回見た。どうみてもまだ犯行から間もない状況だ。しかし、何と言って もその殺され方は本当に惨い。大体3発撃たれているのが多いのだが、その内の一発は必ず顔面に命中されている。つまり間違いなく殺すという意識で撃ってい るのだ。そういうこともあり、とにかく何処を見渡しても睨みを効かせて機関銃を構えている警備員、警察官があちらこちらにいる。いつ何があるか分からない 状態だ、銃を手にしている指は常に引き金に掛かっている。私も恥かしい話ではあるが、けん銃使用によるバス内での強盗の被害に遭遇してしまった。しかし、 安全と言われている時間帯、場所だけであっただけに、どうにも仕方なかったと言わざるを得ない。つまりこの国に住んでいる以上、安全なところなどどこにも 無いのだ。また、仮に柔道5段、警察官という気持ちが働き、少しでも抵抗していたとしたら私の命は間違いなくなかったであろう。
4.エルサルバドル柔道家との出会い
3月27日にエルサルバドルに到着し、数日間の現地JICA事務所でのオリエンテーション、それから4月一杯の現地語学訓練を経て、いよいよ記念すべき5 月4日、職場であるエルサルバドル柔道連盟へとたどり着く事ができた。そして、いよいよ初日、扉を開け入った先には、目の前に「Bien Venido Profesor hidekatu shimotani!」(ようこそ 下谷英克先生)と大きな字で書かれた幕が掲げられてあり、柔道連盟会長、ルイス・チェーベス氏を始め、各幹部一同約 20人が平日にもあるにも関わらず集まってくれており、エルサルバドルの郷土料理で最大の持て成しを私の為だけにてくれた。あの時の感動を私は生涯忘れる 事はないであろう。そして翌日、早速選手との顔合わせをしてから稽古へと参加したのだが、まず初めの第一印象は、実力より何よりも皆、とても礼儀正しく、 親切だった。おそらく、何を言っているのか良くわからないであろう私のスペイン語に対しても、真剣に耳を傾けてくれ、分からないことも優しく丁寧に教えて くれた。どんなに年配の指導者であっても、私に対して常に敬意ある態度で接してくれた。これはひとえにエルサルバドル柔道家の柔道に取り組む姿勢はもとよ り、歴代隊員による指導の成果の賜物ではないかと感じ取る事ができた。
日本でのエルサルバドル柔道に関する調査票では歴代隊員は私で3代目となっていたのだが、この国に来て分かったことだが、エルサルバドル柔道隊員はもう私 で12代、歴代隊員がここまで築いてきたことを崩すことなく、しっかりと引き継いでいこうという使命感を感じると共に、心から柔道を愛する仲間と出会い、 そして、これから2年間を共に出来る事への最高の喜びを私は噛み締めていた。
それと、エルサルバドル柔道には素晴らしい礼法がある。それは稽古の最後、通常なら上座、先生、お互いにと礼をして終了するのだが、エルサルバドルにはも う一つある。それはその後で指導者、選手含め全員一人一人が握手を交わして終了するのだ。この握手というのが実に意味があり、私がいい指導、いい稽古を選 手がした時には力強い握手が交わされるのだが、私に怒られたり元気がなかったりすると軽い握手しか返ってこない。この握手によって選手の状態が把握出来る のだ。こうした何気ない事ではあるかもしれないが、このことによってお互いの稽古の成果を称えあっている事が良く伝わり、柔道の創始者、嘉納治五郎師範の 説いた「自他共栄」の精神に当てはまるのではないかと私自身も大変感心させられた。私はこの握手の時が何よりも好きであり、この国に来て良かったと実感で きる瞬間でもあった。
5.柔道を伝えJUDOを学ぶ
エルサルバドル柔道連盟は1967年設立、この国に柔道を始めて普及したのは韓国人の指導者だった。それから2年後の69年に日本から協力隊、初代柔道隊 員が派遣、内戦で一時派遣は中断したものの、終了してからは復帰、派遣は継続されてきた。しかし、その間に、日本以外にもブラジル、スペイン、キューバか らの指導者を呼び、分散して柔道の普及、強化に努めてきた。なので、柔道についての知識も、年配の指導者は私よりも知っていることが多々あった。だが、こ れだけ様々な国の指導者からの手ほどきを受けてきたのだ、同じ柔道といえども、国によって柔道に対する考えは全く異なってくる。ということは、それを学ん だエルサルバドル柔道家にも考え方がそれぞれの指導者によって微妙にずれている事が多々あった。なので、私はこういうことも踏えた上でも、これから柔道を 指導していかなければならなかった。
協力隊柔道隊員は派遣前に語学訓練とは別に、講道館(*柔道の総本山、教育機関)にて技術補完研修というものも1ヶ月間受けるのだが、その時に海外で指導 するにおいての注意すべき点として、柔道は日本発祥のものであるが、「日本」ということをあまり全面に押し付けてはいけないということを強く言われた。 よって、日本柔道の教科書そのものものをそのまま彼らに指導しても伝わりにくいということを前提に、エルサルバドル改訂版に分かりやすく噛み砕いて教科書 を作り直すことが私の役割だと解釈した。
その為にも、彼らをこれから指導するにあたって、エルサルバドル柔道が現在に至るまで、どういう経緯を辿って柔道スタイルが確立されたのか?それによって の長所は?短所は?課題?更に柔道を離れてみて、エルサルバドル人の特徴に着眼点を置き、体系、骨格、筋肉のつき具合、性格、習慣、文化、癖など、とにか く様々な視点から見て、どういった指導方法が彼らに的確に伝わるかをまずは考えた。そして、同時に私自身もエルサルバドル「JUDO」の良い所は積極的に 受け入れていこうという柔軟さを持ち、そのことを日本柔道に活かせれればということも考えていた。
6.無我夢中の7ヶ月間
私の2年間の活動場所は大きく3つに分けられる。まず、一つは首都サンサルバドル県で、一般の少年から大人を対象とした一般クラスの指導。2番目に地方都 市、サンミゲル県で同じく一般の少年から大人を指導。最後に、再び首都サンサルバドル県で今度は少年から成年までのナショナルチーム(国代表チーム)の指 導を担当した。最初の私の指導は、2006年5月から8月までの3ヶ月間、サンサルバドル県で、少年から大人までの一般生徒対象としたクラスからのスター トだった。ここでは、現地指導陣も充実していた為、私は主に現地指導者のサポート的役割をしていたのだが、前記した通りエルサルバドル柔道にあった指導方 法とは何かということも常に模索してきた。しかし、実際の所その答えをたった数ヶ月で導き出すには余りにも無理があった。なので、とにかく稽古の時でもそ れ以外の時も常にエルサル人と会話を絶やさず、また口先だけの指導にならないよう、自ら先頭に立ち、共に同じメニューをこなし、多少の間違いも恥じること なく全力でぶつかっていく姿勢に徹した。その甲斐あってか、少しずつ彼らとのコミュニケーション、信頼関係も築いていくことができ、出だしの首都での指導 はまずまずといった滑り出しとなった。 しかし、次の2番目の活動場所サンミゲル県、この地での活動が、私にとっての最初の大きな試練となった。
8月から12月までの4ヶ月間は、エルサルバドル第3の都市と呼ばれるサンミゲル県での活動となったのだが、この地で未だかつて歴代協力隊員は指導したこ とがなく、過去にキューバ女子五輪メダリストが指導していたという。さて、そんな事もありどんな柔道家と出会うことができ、どんな柔道をするのか非常に楽 しみであったのだが・・そこで見たものとは柔道というものを遥かに通りこした、お遊び教室の場だった。本当にそれは酷く、お粗末なもので、柔道場として畳 はあるものの、そこで行われている大半の時間は柔道以外のサッカーがメイン。しかも土足で駆けずり回っているため、畳はひどく傷み、床底が抜けている箇所 もいくつもあった。そして、ようやく柔道に移ったと思っても、それは名ばかりで、準備体操、礼法、受身など殆どない。あるのはごく僅かな打ち込みと、立ち 技の乱取り稽古らしきものだけだった。
しかも、アクセサリーもジャラジャラと身に付けて、ガムをクチャクチャと噛んでいるというのは当たり前という始末、もう無法状態だった。「これが本当に柔 道なのだろうか?」私自身も柔道とは何なのか見失いそうにもなった。 こんな状態で、「一体これからどうやって指導していけばいいのだろうか?」正直やっていける自信が持てなかった。翌日、私は何はともこの汚れきった道場を 何とか綺麗にしなければと思い、まずは彼らと共に柔道場の大掃除からスタートした。意外にも初めのうちは私に対して人見知りをしていることもあったせい か、掃除も皆、指示した通りに、一生懸命やってくれた。そんな姿を見て、私は掃除をやりながらこんな問いかけをしてみた。「柔道好き? どこが好きな の?」と、そうすると最初の内は皆照れてはいたものの、「凄く楽しくて好き」「友達も沢山出来た」「習った技が決まった時の感触が忘れられない」と、彼ら から意外と言っては失礼だが、嘘偽りの無い素直な答えが返ってきた。ハッと、私はその時大切な何かに気がついた気がした。「そうだ、彼らは柔道が本当に好 きなんだ。でもその好きな柔道を彼らは正しく指導を受けることが出来ず、誤った方向で理解してしまい、ここまで来てしまったんだ。」と。それから私は、生 徒は勿論、現地指導者にも、柔道の意義、心得から分かりやすくゼロから指導していった。
しかし、好きな柔道といえども、遊び感覚の柔道から一変し、規則や決まりが多く、礼儀作法、受身、打ち込みの基本を重視した練習方法には、頭ではその大切 さには分かっているものの、面白みに欠け、すぐに飽きてしまう彼らには受け入れてもらうことは中々難しく、次第に練習に来なくなる生徒が多くなっていき、 気がつけば50人前後いた生徒が10人台までに減少してしまった。私も何とか試行錯誤しながら、楽しめる柔道をと心掛けていったのだが、一度離れてしまっ た生徒が再び来ることは中々なかった。次第に私自身も指導に対する自信を失いかけ、スペイン語での会話もストレスとなっていき、口数も少なくなっていっ た。また、私生活でも、私を受け入れてくれていたホストファミリーとの間で、トラブルが生じ、関係もうまくいかなくなっていた。それらの事も重なってか、 原因不明の体調不良、デング熱にもかかり、体重もここへ来た当初から16kg減てしまっていた。心身ともに疲れ果て毎日が本当に辛く苦しい孤独との格闘 だった。しかし、そんな中でも、気持ちを切らすことなく指導してきた成果が少しずつ伝わってきたのであろうか、3ヶ月が経過した辺りから生徒にも変化が見 え始め、生徒の数も少しずつではあるが増えてき始めた。ようやくであるが、かすかな感触を掴み始めかけてきた。そんな最中、事態は思わぬ方向へ急展開、連 盟からの意向で、再びサンサルバドル県へ、今度はナショナルチームのコーチ担当としての抜擢となった。サンミゲル県での4ヶ月間、ここでの思い出はいいこ とよりも辛いことの方が遥かに大きかったが、この経験が、私にとって今後のナショナルチームでの指導に大きく役立つ事になった。
7.世界を目指して!
2007年1月、気持ちも新たに私はナショナルチームを担当する事となった。エルサルバドルのナショナルチームのレベルは、中米ではここ数年ナンバーワン の座を保持してきたものの、アメリカ大陸全土のレベルで見ると、世界でもトップレベルを誇る、ブラジル、キューバを始め、アメリカ、カナダ、アルゼンチ ン、ベネズエラなどの強豪国がひしめく中を勝ち抜くには、まだまだレベル的にはかなり厳しい状況にあった。しかし、2007年は連盟としても非常に重要な 年と位置付けられており、7月には、4年に一度行われるパンアメリカン競技大会、9月には世界選手権(共に開催地、ブラジル、リオデジャネイロ)と、重要 な大会が目白押しで、これらの大会の成績は全て2008年北京オリンピックへの選考も兼ねてある大会となっているということもあり、会長を始め連盟全体も この年に賭ける意気込みはとても強く、私への期待も非常に大きかった。そして、それらの対大会に勝つ為の練習メニューの新しい考案は、会長自らも計画に加 わり、早朝5時半~7時半(柔道、打ち込み中心)7時半~8時半(トレーニング)、午後4時~5時(研究 主にビデオで)5時半か~7時半(柔道 乱取り 中心)と、大学生が大半の選手達は、授業の時間を除いては、食事と睡眠以外はほぼ稽古というとてもハードな内容と仕上がった。また、練習相手もどうしても 少ない為、マンネリ化してしまうこともあるので、週末には、恵まれた自然を最大限に利用して、高地や海辺でのトレーニングで徹底的に基礎体力を図った。休 みは唯一、月曜日の朝練習が無い位だった。それでも、ナショナルチームの練習時間としては短いと思われるかもしれないが、選手の中には片道1時間半かけて 道場に来る選手もいれば、夜は治安がとても悪い為、7時半までの練習時間が精一杯出来るギリギリのラインだった。そして、この練習内容を1月から3月まで の試合までの準備期間、彼らは精一杯の努力を見せてくれた。私もそんな彼らの頑張りに答える為に、スペイン語での交換日記で、彼らの精神面のアドバイスを したり、アメリカ大陸各国の柔道スタイルも全くといっていいほど知らなかった為、選手達と過去の対戦試合、データを参考にしながら対策を練り研究をしたり と、手探りの状態の中から出来る限りのことはしてきた。
そして、迎えた4月、シーズン第一発目となる中米大会、もう、中米レベルの大会は、軽く優勝して次に繋げていきたいと思っていたのだが、結果は、まさかの 敗退で数年ぶりに2位に甘んじてしまうという結果となってしまった。しかし、気を取り直し5月のアメリカ大陸大会、レベルからしても中米大会とは比べ物に ならない規模の大会ではあったが、今度こそ稽古の成果を発揮してくれるだろうと思ったのだが、7選手出場して、挙げた勝利は、不戦勝を含めて僅かの3勝と いう形で終わってしまった。コーチとして就任してから僅か5ヶ月足らず、たったそれだけの期間でいい成績を残せるほど勝負の世界は甘くないとは思っていた のだが、それでも、ただただ悔しい気持ちで一杯だった。それは選手も当然同じ気持ちだったとは思う。 しかし、その一方で、この大会なのだから負けるのは仕方がないという、半ば諦めかけている気持ちがあったのも事実だった。それは、柔道の実力の差というこ とだけではない。もっと大きな、国と国との規模の差を感じざるを得ない気がしたからだ。でも、私はそのことをいい訳に彼らに諦めてもらいたくなかった。例 えどんなに厳しい環境にあったとしても、どんなに苦しい局面にあっても、自らの手で、やれば出来るということを証明して欲しかった。勝って、エルサルバド ルと言う国を誇りに思ってもらいたかった。私はこの時、協力隊の枠を超えてでも必ず彼らを勝たす。そう心に決めた。
8.奇跡の快進撃!
5月のアメリカ大陸大会が終わり、敗戦に沈む余裕も無く、次の大会、パンアメリカン競技大会の最終選考会はもう目の前に迫っていた。大会までの期間は僅か 2週間弱、これだけの期間で劇的に技術が進歩するはずはない。私は選手達が最高な状態で試合に臨めるよう、気持ちの引き出しを最大限に引き出すことに尽し た。そして、迎えた大会、エルサルバドルの快進撃はここから始まった。大会に5名が出場した中で、激戦を勝ち抜き、4名の選手が本戦出場の切符を手にし た。更に本番7月に行われたパンアメリカン競技大会 柔道競技においては、男子-81kg級 フランクリン選手が、強豪選手を下し、見事今大会で銅メダル を獲得。エルサルバドル柔道史上初の快挙を成し遂げたのだ。あの敗戦から僅か2ヶ月、本当にそれは今の実力では奇跡に近いものがあったと思うが、彼にはそ れを裏付けるだけのものは確かにあった。
ここで少し彼について触れたいが、彼の家庭は決して恵まれてはいなかった。大学生である彼は家計を支える為にアルバイトを1箇所では足らず2箇所でしてい た。言うまでもなく、練習はあの内容だ、当然、体も限界になる。彼の練習での口癖はいつも「もう、疲れて限界です」だった。本当にそうだ。普通の人間なら あのノルマをこなしていたら当に体を壊しているに違いない。私もそんな彼をみて、何も言うことが出来なかった。今まで恵まれた環境の中で何不自由なくただ ぬくぬくと柔道をしてきた自分に何が言えるだろうか?言えるのはただ、「頑張れ」それだけだった。そんな彼の頑張りは柔道連盟を動かした。彼は実力が十分 あるにも関わらず疲労で試合に力が発揮できない、彼が万全で望めるよう彼の援助を少しでも連盟がしよう。彼は柔道に専念できるだけのエネルギーを持つこと が出来たのだ。しかし、彼は勝って結果を出しても決して奢ることなく、謙虚で、皆への感謝の気持ちを忘れてはいなかった。「メダルを取れたことは嬉しいで す。でもこれは自分一人で取れたものではありません。エルサルバドル柔道家、皆で勝ち取ったものです。それにもうこれは過去の物、世界でのメダルが欲しい です。」彼はこう言ったのだ。私はこの事が、涙が出るほど嬉しかった。柔道だけでなく、人間としてこれほどまでに成長してくれた事が何よりもうれしかっ た。
この大会から2ヵ月後の9月、世界柔道選手権大会(ブラジル リオデジャネイロ)にはフランクリン選手を初めとする(男子2名、女子2名)計4名が出場、 結果を一括りに言ってしまえば全くだったのかもしれないが、皆大健闘したといえる。特に女子、-48kg級スレイマ選手は1回戦で強豪中国との対戦、ポイ ントこそ取られたが5分間戦い抜いた。男子-66kg級、カルロス選手、そしてフランクリン選手、共に一本勝ちで世界1勝を挙げた。間違いなくそれぞれが 次に繋がる大きな手ごたえを掴んでくれたのではないかと私は感じた。そして・・・2008年5月、私の活動は3月で終了となっていたが、北京オリンピック 代表には、フランクリン選手が出場決定となった。私としては当然世界選手権に出場した4選手全員にチャンスがあっただけに決めて欲しかったのだが、まだそ こまでは現実は甘くないということも言えるのだろう。しかし、フランクリン選手一人とはいえど、この舞台への挑戦を精一杯努力してもらいたいと同時に私自 身も、日本で出来ることを少しでもサポートしていければと思っている。 頑張れ! フランクリン!!
9.人生の金メダルを目指して
2008年8月、北京オリンピックは訪れる。私もこの夢の舞台に監督として立ちたかったということは正直なとこだ。しかし、活動期間が2年と決められてい る以上それは承知のことだから仕方のないことだと言うことも分かっている。それでも、3月24日をもってお預けになった夢を諦めるつもりはない。必ずいつ の日か今以上の知識を蓄え、経験を積み戻ってくるつもりだ。だが、この活動期間、私はオリンピックの為だけを目指し、走り続けてきたわけではない。その先 の大きな勝利に向かって走り続けてきたつもりだ。だから、勿論金メダルを目指し一生懸命頑張ってもらいたいが、それが全てではないんだという事を言いた い。仮に、オリンピックでフランクリン選手が金メダルを獲得したとしたら、それが彼の柔道家としての全てであろうか?私はそうは思わない。なぜならば、そ の先にも柔道家として歩んできた以上、道はあるからだ。むしろそれから先、柔道を終えた後の人生の方が、エルサルバドルの柔道家達にとっては辛く険しい道 のりが幾多も待ち受けているからだ。その時、私はこの柔道を通じ学んできた事を思い出して欲しい。この畳で磨いた精神を、この畳で養った魂を・・・そし て、また、彼らに再び逢いたい。彼らがどう成長したのかを。そして私自身も彼らの成長に恥じないように。オリンピックの先にある人生の金メダルを目指し て。
最後にこの活動に際しご尽力頂いた、職場、講道館、全日本柔道連盟、全ての皆様に心から感謝し、2年間の報告としたい。