1998年にアジアチャンピオンになった真壁友枝さんは現役引退後、所属チームのコーチ兼マネージャーになったのち、自社の一般社員となり、営業担当として優秀な営業成績を収めた真壁友枝さん。現在、本社営業推進部に活動の場を移し、新たな業務にチャレンジしています。選手からキャリアウーマンとして輝く、真壁さんのセカンドキャリアを紹介します。
(協力:女子柔道振興委員会)
<プロフィール> 真壁友枝(まかべ・ともえ) 1974年生まれ。岡山県出身。
小学2年生のとき、勝央町スポーツ少年団で柔道を始める。岡山東商業高校を卒業後、三井住友海上火災保険(株)に入社。48kg級の選手として、田村亮子(現・谷)らと熱戦を繰り広げ、初の日本代表として出場した1998年のアジア競技大会で優勝。女子チームに唯一の金メダルをもたらした。現在、同社営業推進部モーターチャネル推進チーム課長代理。柔道部特別コーチ。
5年間コーチ兼マネージャーを務め、柔道からの引退
――― 引退を決めたきっかけについて教えてください。
「きっかけは03年の選抜体重別です。勝ったと思ったんですが相手の『一本』という判定だった試合で、そこでプツッと糸が切れました。すぐに気持ちも切り替わらなかったし、次の年がアテネでしたので、同じ軽量級の横澤(由貴/アテネ五輪銀メダリスト)たちの打ち込み相手でもできればと考え、コーチ兼マネージャーとして柔道部に残りました。5年後に北京五輪が終わり、柔道部自体から身を引くことを決めました」
――― そのとき、次のキャリアについては考えていましたか?
「いえ。ただコーチ時代に何かの役に立つかもしれないと思い、いろんな資格を取得しました。損保(損害保険)、生保(生命保険)から色彩、カラーコーディネートとか、資格マニアかっていうくらい(笑)。実はいまもいろいろチャレンジしています」
――― 指導者への道は考えなかったのでしょうか?
「現在チームで指導にあたっている手島(旧姓/木本)奈美、彼女はまさに指導者としての素質を持っています。対して私は、マネージャー気質というか。彼女を見て、私は指導に向いていないと思いました」
「柔道をやっていたんですよ」で顔を覚えてもらう
――― 引退後も会社に残ることは決めていたのでしょうか?
「正直〝さて、どうしよう〟と思いました。年齢的に再就職は厳しいし、やりたいことも特にない。それなら応援していただいた恩返しとして、お世話になった会社で転職したつもりで働かせていただこうと考えました。地元に帰って岡山県の津山支社に配属され、最初は内勤で事務。その後、営業担当になりました」
――― 営業担当として、損害保険の売り上げで好成績を収められたと聞いています。
「柔道の経験が強みになりました。もともと私の地元でしたので、選手としての私を知っている人がたくさんいたし、知らない人には〝柔道やっていたんですよ〟と言いながら名刺を渡せば顔を覚えてもらえる。柔道がいい営業のツールになりましたね(笑)」
――― その後、本社へ異動された理由は何でしょうか?
「成績を出した翌年さらに勉強する必要を感じまして、社内のポストチャレンジ制度に応募したところ、本社への異動が叶いました。いまは本社での業務に悪戦苦闘してます(苦笑)。日々、いい経験をさせていただいております」
今後の目標は、現地での柔道指導者育成
――― これまでで一番大変だったことは?
「津山に戻ったときですね。会社や損害保険についての知識も浅いなかで、現場の業務に取り組む毎日でしたので、いろんな人に迷惑をかけました。当時はいつ辞めようかと思っていましたね。でも、辞められない。現役選手が頑張っていますから。私が途中で投げ出したら、『柔道部はダメだ』と評価されてしまう。私は女子柔道部という看板を背負っているのだから〝できないから辞める〟という選択だけは絶対しないと決めていました」
――― いまも真壁さんの後ろには、女子柔道部があるのですね。
「もちろん! あらゆるモチベーションの裏に柔道部にあります。後輩たちが頑張るから私も頑張れるし、私が頑張ることで柔道部の存在価値が上がり、いろんな方が柔道部を応援してくれるようになって欲しいです」
――― 最後に、いまの目標は?
「日々精一杯です(苦笑)。でも、常に様々なことにチャレンジしていきたいですね。任せていただいた仕事や役割には感謝して、全力でやる。私でよろしければ、という謙虚な思いを常に忘れずに、全力で役割を果たしていきたいと思っています」
*本記事は『まいんどVol.15』に掲載された記事をweb版に再構成したものです。
*プロフィールに記載の在籍情報および役職は、記事掲載当時のものであり、現在真壁さんは、岡山支店津山支社長としてご活躍されています。