オリンピックメダリストをはじめとする数多の教え子を持ち、フランス、スイスのみならずヨーロッパ中の柔道家から、「Sensei」と慕われる片西裕司さん。「美しい柔道」の根底にある「基本」の大切さを説き続けて早40年以上。名指導者の旅路は、生徒の純粋な意欲と向上心から生まれる、「指導の喜び」に導かれたことから始まりました。
――1974年にフランスに渡り、1976年からスイスで指導を続けておられます。まずは、ヨーロッパに渡られたきっかけから教えていただけますか。
もともと私は保健体育の先生になって柔道を教えたかったんですね。天理大に入学した当初から教員を志望していました。でも、4年生になって教育実習に行ったときに、ちょっとがっかりしたというか。当たり前ですが、生徒はみんながみんな体育が好きなわけではないんです。やる気のない人もたくさんいて、そういう生徒に私は体育への興味を持たせることができなかった。それで教師になってもどこまでできるのかなと不安になりましてね。そんなふうに思っているところに、私のボスである橋元親先生から、フランスに行ってみないか、と言われたんです。天理には毎年春にフランス柔道連盟から選手が合宿に来ていて、その関係でちょうど僕が卒業する年に、何人かフランスに送ってほしいという要請があったんですね。
――なぜご自身に白羽の矢が立ったと思いましたか。
フランスとの親善試合にも出してもらっていたし、ドイツや他の国の選手ともよく練習していたからだと思います。私は外国人とのつきあいがいいほうだったんです。ヨーロッパのなかになかなかいい柔道をする人がいるな、と思っていましたし、友だちもいましたからね。天理にはスイス人のフェデリック・キブツというOBがおられて稽古をつけてもらっていましたから。それで、片西なら、と思ってもらったのでしょう。
――ご家族や周囲はすんなり賛成してくださいましたか。
最初は両親には反対されたんですけどね。でも母方の祖父が、これからの若い人たちは外に出したらいいよ、と話をしてくれて。私は中学に上がる前、小学生のときに明石市にある浜田道場というところで柔道を始めたのですが、そのときの恩師の金川修先生も、片西は送るべきだなぁ、という話をしてくれました。それで先輩3名と一緒に4名揃って行きました。
――フランスではどのような生活でしたか。
2年間、INSEP(フランス国立スポーツ研究所)に詰めて、ナショナルチームと一緒に練習をしました。2年目からは一緒に行った村上清先輩とアパートを借りて住み始めました。やっぱりね、4人で一緒に生活しているとフランス語もなかなか覚えないし、ずっと一緒というのもね。結果的にこれが良かったですね。ずいぶん言葉を覚えました。
柔道は柔道で会話ができますから、道場で困ることはありませんでしたけど、やっぱり日常会話ができるようにならないとね。学校も行きましたけど、なかなか進まなくてすぐにやめてしまいましたが、アパート暮らしを始めたら割合にすぐに覚えましたね。