「柔道の父」とよばれ、スポーツや教育分野の発展に尽力した嘉納治五郎師範。今回は、柔道の総本山である「講道館」創設に到るまでの彼のルーツをご紹介します。日本のオリンピック初参加にも尽力し、国際人としても知られる嘉納治五郎の素養は、父・嘉納次郎作の英才教育から形成されたものでした。
*本記事は、和田孫博氏の文章をもとに再構成しています。
海軍奉行・勝海舟との不思議な縁
嘉納治五郎の生まれは1860年、幕末の時代に遡ります。
治五郎は、現在の兵庫県神戸市にある灘五郷の御影郷という地域に生まれました。ここは日本を代表する酒どころのひとつ。菊正宗酒造を経営する嘉納家の分家筋が、彼の生家でした。
治五郎の父・次郎作の生業は、江戸に清酒を送る廻船業。次郎作は幕府の廻船方御用達を務め、かの有名な軍艦奉行・勝海舟のパトロン的存在だったといわれています。記録によると、勝海舟は神戸海軍操練所の開設中、次郎作の家に滞在したとのこと。この頃、治五郎はまだ3~4歳でしたが、勝海舟のことはおぼろげに記憶していたのではないでしょうか。
明治維新後、次郎作は勝海舟の推薦を受け、新政府に仕えるため上京。明治政府で貿易や海運を担当し、後に海軍権大書記官に任命されます。このとき、当時9歳の治五郎も同行していました。
ちなみに、次郎作上京後も嘉納家と勝海舟の交際は続いており、講道館の道場落成式に来賓として招待されています。講道館には、勝海舟の扁額がいまも保存されているそうです。
父の英才教育と、コンプレックスとの戦い
次郎作は当時から外国語の重要性を認識しており、英語教育に熱心でした。
治五郎も、12歳で私立育英義塾に入学して英語とドイツ語を学び、翌年には官立外国語学校でさらに英語を学びます。そして14歳には官立開成学校(後の東京帝国大学)で政治学や理財学を学び、その後さらに道義学や審美学の専科に入っています。
治五郎の英語力や国際人としての素養は、こうした父の英才教育から形成されたと考えられます。そのうえ英語だけでなく、実学も哲学的教養も身につける人物となっていきました。
一方で治五郎は、明治初期としても決して大きな身体の持ち主ではなかったため(*身長160センチ足らず)身体が弱いというコンプレックスを抱えていました。
そこで「身体を鍛えたい」という思いから、父の反対を受けながらも、いくつかの柔術道場の門を叩いたのです。しかし流派によって教えが異なることを知り、同輩や後輩を集めて自分たちの道場を開くことを決意。当時治五郎は21歳、これが講道館の始まりでした。
▶第2回は、「文武両道」についての考え方
嘉納治五郎が唱える「文武両道」の精神に込められた思いについてお届けします。
実は「文武両道」ではなく、“ある言葉”を重んじていたといわれています。