嘉納治五郎師範は講道館を開いたほぼ同時期、書生たちを集めて「嘉納塾」を開設しています。どちらもほぼ同じメンバーが通っていたようですが、講道館は「武」を鍛える場であり、嘉納塾は「文」を鍛える場と区別をつけていました。まさに「文武両道」を実践していたのです。
今回はこの「文武両道」について、解説をしていきます。
*本記事は、和田孫博氏の文章をもとに再構成しています。
嘉納の教えは「文武両道」ではなかった!?
厳密にいうと、嘉納は「文武両道」ではなく、「文武不岐」という言葉を用いています。
「文武両道」は、「文」と「武」という別々のものを両立するという意味合いが強い言葉です。しかし「文武不岐」には、「文」と「武」は分けられないものという意味があります。学問においても、集中力や忍耐力など「武」の要素が不可欠。一方で、thinking baseball という言葉があるように、スポーツにおいても「文」の要素が不可欠なのです。
また、嘉納は「文経武緯」という四字熟語もしばしば用いています。これは「文」が縦糸、「武」を横糸に例え、すべてのものがこの両要素によって成り立っていると伝えていると考えられます。
こうした言葉の端々から、嘉納の人生観や思慮深さが窺い知れます。
今も学び舎に残る、嘉納治五郎の言葉
嘉納治五郎の、教育者としての影響力を感じさせるエピソードがあります。
「文経武緯」という言葉は、愛媛県にある松山東高校において戦前からのモットーとのこと。同校には、内務官僚で岡山県知事・大阪府知事、文部大臣などを歴任した、安井英二氏による「文経武緯」の揮毫が残っています。この安井氏は東大、内務省、文部省で嘉納の後輩にあたる人物。もしかすると、嘉納と一緒に過ごす中で、この言葉を教えられた可能性もありますね。
あるいは、この言葉は河東叡太郎(俳人・河東碧梧桐の甥)が持ち込んだのかもしれません。叡太郎は、講道館出身で嘉納の直系門下生。そして、安井氏が学んだ松山中学校の柔道師範でもあったからです。
さらに、あの夏目漱石も、嘉納の紹介で松山中学校に1年間教鞭を取ったとか。これらのことから、同校と嘉納との縁の深さを感じることができます。
▶次回は「第3回:東京オリンピック招致を目指して①」
嘉納治五郎が日本スポーツ界で「オリンピックの父」と呼ばれる所以となった、
1940年東京オリンピック招致について、前後編に分けてご紹介します。