日本でのオリンピック開催を目指した東京市長・永田秀次郎は嘉納治五郎に、東京招致の必要性を力説。嘉納は当初「日本での開催は時期尚早」と考えていたようですが、永田の熱意に押され、1940年の開催国として立候補を決意します。しかし、開催への道のりは決して平坦なものではありませんでした。
*本記事は、和田孫博氏の文章をもとに再構成しています。
世界恐慌にも負けず…当時の日本人たちの活躍
当時の時代背景にも触れておきましょう。1932年開催のロサンゼルス大会は世界恐慌の影響で、参加国数は前回アムステルダム大会の約半分でした。そんななか日本代表は、男子が水泳5種目で優勝、そのほか馬術や陸上競技でも優勝という成績を残し、合計7つの金メダルを獲得しました。こうしたロサンゼルス大会での日本の活躍は、東京オリンピック招致への追い風になったと考えられます。
1935年のIOC総会では1940年オリンピック開催に多くの都市が立候補したため、議論は紛糾。開催地の決定に至らず、翌1936年ベルリン大会での総会で決定することになりました。この一年の間に、日本はイタリアのムッソリーニ総統を説得、なんと有力候補だったローマの立候補取り下げに成功します。こうして国を挙げてロビー活動に力を入れた結果、ヘルシンキとの決選投票となりました。
IOC委員を説得した、嘉納治五郎の名演説
1933年に国際連盟を脱退し、政治的には世界から孤立していた日本。しかし、嘉納をはじめとする国際協調主義者の人脈のおかげで、スポーツの世界では欧米との繋がりは切れていなかったのです。また、アジア初のオリンピック開催に関心を抱くIOC委員もいました。
しかし極東に位置する日本と、欧米との物理的距離を危惧する声も。当時は、欧米を行き来する際には船で何週間もかかったのです。そんななか、日本招致の最終プレゼンターとして演壇に上がった嘉納は、流暢な英語で、堂々とこう発言しました。
「1912年のストックホルム大会以来、日本はオリンピックへの出場を継続している。もし遠距離を理由に日本にオリンピックが来ないのであれば、日本からヨーロッパへの参加もまた遠距離であるから、出場する必要はないということになる」
こうして、アジア初のオリンピック招致の説得に成功。このとき嘉納は75歳、国内では二・二六事件が起こりました。ちなみに1936年のベルリン大会では陸上競技やマラソン、水泳で数多くの金メダルを獲得。ふたたび日本人選手が大活躍しました。
▶次回コラム第5回では、嘉納の「生来の教育者」としての側面を遡ります。
20代という若さで教頭職についた嘉納は、身分に左右されない教育改革を熱心に実施していきました。