嘉納治五郎は、「生来の教育者」といった人柄でした。嘉納の口述録をまとめた『嘉納治五郎―私の生涯と柔道』(日本図書センター発行)には「自分にとっては、人にものを教えるということが一種の楽しみであった」と記されています。今回は嘉納の教育者としての側面を見ていきましょう。
*本記事は、和田孫博氏の文章をもとに再構成しています。
25歳の若さで、学習院の教頭職へ
嘉納は学生時代に、父親や友人から大蔵省への入省を勧められていましたが、従おうとはしませんでした。東京帝国大学専科在学中、学習院で非常勤講師として政治学と理財学を、日本語と英語の両方で教えていました。そして卒業後、そのまま専任教師となったのです。
学習院は華族の子弟の教育を目的として設立された学校で、1884年に宮内省の管轄となりました。そのため生徒の多くは旧藩主の家柄、なかには嘉納よりも年上の生徒もいて、教師への尊敬の気持ちが欠けていました。さらに一方で、教師は大半が藩士の出身。生徒に対して卑屈な態度をとる者もいたようです。嘉納はこうした学習院の風潮を嘆き、同様の考えを持つ教師たちと、この生来の悪習を打破することに努めました。
そして1885年に大鳥圭介が学習院の院長(校長)に就任。大鳥は嘉納に信頼を置き、教頭職に嘉納を据えました。そのとき嘉納は、なんと弱冠25歳。こうして教育課程の改正や教師の選出などの教務は、すべて嘉納に任されることとなりました。このとき嘉納は、華族だけでなく一般家庭からも優秀な子どもを選抜し、互いに切磋琢磨させ、学習院全体の教育の質を高めようとしました。そして華族以外で入学した生徒にはのちに官界・実業界・軍の要職に就いた人も多くいたようです。
時期院長との確執から渡欧
2年後の1887年、次に院長に就任した三浦梧楼は、嘉納と教育方針を異にしていました。嘉納は生徒の出自を区別しない主義でしたが、三浦はむしろ身分の違いを重視。例えば留学生を決める際、嘉納は身分を問わず選抜した一方、三浦は華族でないという理由で認めず選び直す、ということもあったようです。こうして意見の衝突が重なっても、嘉納は職を離れませんでした。
しかし1889年に三浦は嘉納に海外への長期視察を打診。「これ以上嘉納とはうまくやっていけない」との判断だったと推察できます。こうして嘉納は渡欧の機会を得たのでした。
なお、学習院で教育に携わった間も嘉納は柔道の普及に努め、28歳のとき英語で『Jujutsu: The Old Samurai Art of Fighting Without Weapons』を発表。嘉納が若い頃から柔道の国際的普及を目指していたひとつの証拠といえます。
▶次回コラム第6回では、嘉納の渡欧生活をご紹介していきます。初めての欧州滞在は、結果的に彼の教育者として、
そしてグローバリストとしての思想を築いた重要な滞在となったのでした。