1852年にギリシャのオリンピアで古代遺跡が発掘されて以来、ヨーロッパ各地でオリンピックの名を冠する競技会が開かれるようになりました。オリンピック復興を目指す小さな波を大きなムーブメントにしたのが、フランス生まれのクーベルタンです。
*本記事は、和田孫博氏の文章をもとに再構成しています。
オリンピック生みの親と、嘉納治五郎の共通点
男爵の家に生まれたクーベルタンは、将来は軍人か政治家を期待される人物でした。しかし普仏戦争の敗北から続くフランスの沈滞ムードを打破するために教育改革を志し、スポーツを取り入れた教育の推進に力を入れたのです。ヨーロッパ各地の教育・スポーツ事情を精力的に視察、オリンピックの復興を模索していきました。
そして欧米各国の有力者たちに賛同と協力を求め、1894年に国際オリンピック委員会(IOC)を結成、1896年にアテネで第1回オリンピックを開催しました。そして自ら2代目のIOC会長に就任し4年ごとの開催を軌道に乗せたのです。
クーベルタンは、古代ローマの詩人ユウェナリスの言葉‘mens sana in corpore sano’ を好んで引用したといわれています。日本語では「健全な精神は健全な肉体に宿る」と訳されますが、本来は「健全な肉体と健全な精神のどちらも必要」という意味。嘉納治五郎が唱道する「文武不岐」と相通じるといえるでしょう。奇しくも嘉納治五郎が講道館を創設した同じ年、クーベルタンはフランスでフェンシングクラブを創設。どちらも伝統武術を近代スポーツとして再スタートさせる取り組みであり、二人の間には幸運にも運命的な共通点があったように感じます。
嘉納、アジア初のIOC委員に
開催当時オリンピックの参加国はヨーロッパ諸国、アメリカ、それらの旧植民地からの独立国がほとんど。東アジアの国はどこも未参加でした。クーベルタンは「できるかぎり全世界的な大会にしたい」と考えていたため、駐日仏大使オーギュスト・ジェラールにIOC委員に適する日本人の推薦を依頼。そこでジェラールに推薦されたのが、嘉納治五郎でした。
翌年、嘉納はアジア初のIOC委員に就任。しかし、日本にはまだすべてのスポーツを統括する組織がありませんでした。そこで各競技の有力者を引き入れて大日本体育協会を設立、自ら初代会長に就任します。(その事務所は東京高等師範学校内に置かれました。)そして翌年の第5回オリンピック・ストックホルム大会に2名の選手を連れて団長として初参加を果たし、晴れてその地でクーベルタンと対面しました。
嘉納はオリンピックに合わせて外国で講演を行うなど、少年期から身につけてきた英語力を遺憾なく発揮。彼はスポーツを通じて日本と欧米諸国との友好関係を強めようと努力したのです。
たとえば1924年アメリカで移民法が施行され、日本からの移民が全面禁止になったときのこと。当時アメリカの門戸開放政策により西海岸への移民が急増していたのですが、低賃金で勤勉に働く日本人への排斥運動が強まった結果でした。
これに憤慨し、日本では英語教育の禁止を訴える人までいました。しかし嘉納は「むしろこういう時期だからこそ両国民の理解を深めることが重要だ」と主張。日本英語協会を設立し、名だたる英語学者が集まるなか初代会長に就任しました。一貫して国際協調主義を取っていた、嘉納の姿勢をよく表しています。
▶次回コラム第9回では、嘉納の講道館精神を表す「精力善用」「自他共栄」の紹介。
そして名門「灘中学校」創設のストーリーです。