プロフィール
三谷 澄枝(みたに すみえ / 旧姓 : 海下)1978年 兵庫県出身
兵庫県立加古川西高等学校教諭 柔道部監督
講道館柔道女子四段
主な戦績
1993年 全国中学生柔道選手権大会 52kg級 3位
1998年 全日本女子柔道体重別選手権大会 52kg級 3位
1999年 全日本学生柔道体重別選手権大会 52kg級 優勝
1999年 オーストリア国際柔道大会 52kg級 出場
この度、天理高校、天理大学で毎日厳しい稽古をつけていただいた打味(旧姓:植田)裕子先輩からのバトンを受け取りました。三谷澄枝です。どうぞよろしくお願い致します。1学年違いの先輩は、稽古後に度々一献交えて下さり、稽古時のあの技は…組み手はと、あれやこれやと…等々、私たちは年頃にも関わらず終始、柔道談義ばかりで店を出るや否や組手が始まり、公園でも何度か投げられた記憶があります。先輩との事は、この紙面では表せない程沢山あり、それは私の青春の宝であり生涯の大切な思い出です。
私は、元々、格闘技が好きで小学校で少林寺拳法を習い、中学校の部活動で柔道を始めました。中江祐二先生にご指南いただき、寝技で耳が潰れた際には、柔道を全く知らなかった両親は、「女の子なのに・・・。」と心配していましたが、「柔道をしている者からすれば、勲章です。」と、先生の言葉に何だか柔道をしている自分を誇れたことを今でも覚えています。さらに上を目指すために天理高校、天理大学の門を叩き、柔道漬けの日々を過ごす中、藤猪省太先生の下、初めて学生(正力杯)全国大会で優勝することができました。試合後に先生から、「今日だけは、日本一強いことを自負してもいい」と言われ、同日、2階級上で優勝した打味先輩と明け方まで祝杯を挙げました。しかし、翌日、先生からご教示いただいたことが今も心に残っています。「柔道をしている者なら昨日の試合結果は立派なことだが、柔道をしていない者からすればどうって事ない。社会に出て世の為、人の為に貢献し活躍できる人間になることが大切だ。」と…教わりました。
その後は、実業団(ダイコロ株式会社)で現役生活を終えました。
引退後は、地元、兵庫に戻り、社会経験の無かった私は、様々なジャンルのアルバイトをしました。日本語教育にも興味があったので専門学校にも通いました。今までとはまた違う出逢いや経験も積むことができ、楽しくはあったものの、ふと、藤猪先生の言葉を思い出し自身が本当にすべきことを摸索し始めました。そんな矢先、高校体育教師の話を頂きました。教員免許は取得していたものの、当初は、あまり乗り気ではなかったのを覚えています。
しかし、臨時講師としての勤め先で島田直紀先生と出逢い、私の考えは一変しました。
先生は、バレーボールが専門種目で競技自体は異なりましたが、一人一人の生徒に対して真摯に教え、育て、導き、鍛える中で生徒自身が変わり成長していく姿をみせて下さいました。そんな先生の寛大なご指導の姿に感銘を受けた私は、本心から教員になりたいと思うようになりました。そして、先生のご指導の下、教員採用試験に合格することができ新たな道を拓いて下さいました。
改めて、競技生活を振り返ると、柔道で、良き師、良き友と出逢い、学び、心を育てて頂きました。そして、柔道をしていたからこそ新たな師と出逢い、体育教師という道でさらには、柔道に携われる事に、日々感謝しながら生徒と向き合っています。ただ、昨今は、柔道人口も減少傾向の一途を辿っています。
せっかく柔道に親しんでいても、高校進学と共に柔道から離れていく者も少なくはなく危惧致すところです。
現在は、2児の母としてできる範囲の中で、私なりに体育教師として、また、柔道の指導・審判を通して、まずは、勝ち負けだけではない柔道本来の楽しさや、仲間と共に稽古に励む喜び、そして、社会に出て必要な礼儀作法を重んじる教育を念頭においた指導を行っております。また、生涯スポーツとして、柔道に親しむことができる環境づくりに励むことも必要だと切に感じております。今後は地域との連携を図りつつ、高校生が主体となった柔道教室を開催するなどの取り組みを推進したいと思案しており、微力ながら柔道への貢献と発展に繋がるよう努めて参りたいと思います。
最後になりますが、柔道を通しての出逢い、柔道で培う事のできる強い心身、日々稽古での取り組み…等々、それぞれの目指すべき柔道の中で各々がしっかりとした羅針盤を持ち、日々邁進しつつ自身の人生に大きな原点となり得る様に築いていってほしいと思います。
次回は、教員になった後に柔道で出逢い、いつもお力添えいただいている河合(旧姓:岡田)暁子さんが登場します。