プロフィール
稲川 郁子(いながわ いくこ)1975年 静岡県生まれ
日本体育大学 保健医療学部・同保健医療学研究科 准教授
講道館柔道女子六段
主な戦績:
1991~1992年 全国高等学校総合体育大会柔道競技 女子団体 優秀校
1994~1996年 全日本学生女子柔道選手権大会 出場
1995年 正力杯全日本学生女子柔道体重別選手権大会 出場
2011~2018年 全日本柔道形競技大会 出場(柔の形)(14、17年 4位)
こんにちは。稲川郁子と申します。この度高校柔道部のかわいい後輩、かつ現在私が勤務する日本体育大学の卒業生である山下まな実さんからのご紹介で、たいへん僭越ながら本欄に寄稿させていただくこととなりました。
時は昭和50(1975)年。駿河の国、静岡県静岡市のある町に、3800グラムの身体も態度も大きめな女の子が生まれました。女の子はすくすくすくすくやたらに育ち、クラスの男子と相撲の稽古に明け暮れ、泣かすなどし、将来はお相撲さんになる!と力強く富士山を見上げながらごはんをおかわりしていました。そんなある日、日に日に巨大化する女の子に、彼女のお母さんは告げました。「たいへん申し上げにくいのですが、女の子はお相撲さんにはなれません。今後の人生につきまして再度ご検討ください」。青天の霹靂。呆然と立ち尽くす彼女には、65000グラムに育った巨体しか残されていませんでした。
女の子は考えました。どうしてくれようこの身体。そうだ、オリンピックで山下選手が金メダルをとった。山下選手は大きかった。私には柔道があるではないか。
善は急げ。彼女は近所の市営体育館の柔道教室の門を叩きました。陸で干上がったトドっぽかった女の子は、水を得たトドのように柔道にのめり込みました。そのまま中学でも柔道部に入り、柔道を続けようと意気込んでいました。しかし、柔道部の先生は彼女に告げました。「申し訳ないんだが女子部員がいない。美術部にでも入って体育館で柔道を続ければ」。女の子は泣く泣く美術部に入り、中学1年では構想1年、制作5分の大作を1枚仕上げるなどしました。
そうこうしているうちにも時代は流れ、潮目が変わり。ある日柔道部の先生は彼女に言いました。「またでかくなったな。給食必ずおかわりするそうだな。いいぞ。今度のソウルオリンピックでは、柔道競技に女子も加わるそうだ。柔道部で頑張ってみるか」。中学2年の春。女の子は念願の柔道部員となりました。
そして夏、ソウルオリンピック。彼女はテレビにかじりつき日本選手の応援をしていました。「女子66キロ以下級、日本の佐々木光が金メダルです!筑波大学の学生、静岡県の市立沼津高校出身の佐々木光がやりました!」・・
この日が彼女の転機となりました。静岡県出身の選手が金メダルをとった。すごい、カッコいい、私も強くなりたい。そして、態度でかめなおかわり少女こと私の柔道人生が本格的に始まったのです。
翌年、新たに柔道部顧問として阿部光好先生が着任され、遊びではない本気の柔道を教わりました。阿部先生は決して声を荒げることのない先生です。幼い時期に、常に冷静でロジカルな指導者と出会えたことは、私の大きな財産です。阿部先生に改めて柔道の基礎を叩き込んでいただき、私は、あこがれの佐々木選手の母校である市立沼津高校に進学しました。
市立沼津高校では名伯楽である根木谷信一先生の薫陶を受けました。根木谷先生は情熱の指導者、前夜どんなにお酒を飲んでも生徒の誰よりも早く朝練に現れ、生徒の誰よりも速く走り、重量級の選手を追い回す先生でした。78000グラムあった私の身体は、だいぶシュッとしました。同期にも恵まれ、切磋琢磨の日々。私が高校に入学したこの年、全国高校総体(インターハイ)柔道競技で、記念すべき女子の第1回大会が開催されました。「本当に強い選手と稽古しろ。強いとはどういうことか、肌で感じてこい」。根木谷先生は私たちを様々な場所に連れて行ってくださり、また強豪実業団をまるごと合宿に招聘するなど、たくさんの(地獄のような)経験をさせてくださいました。
高校3年、インターハイ。柔道選手の甲子園ともいえるこの大会にすべてを燃やし、燃え尽き、夏が終わったとき。私はふと我にかえりました。
「柔道だけでいいの?」
私は、強豪大学や実業団で柔道を続ける道を選びませんでした。
普通に受験して、普通に勉強をする。普通に髪を伸ばして、化粧をして、やせる。
普通の女子大生に、私はなる!
というわけで、大学生になりました。よく勉強しました。でも髪は自分で結べないので伸ばせませんでした。化粧はちょっとしてみましたが罰ゲームみたいだったのでやめました。減量はできるのにダイエットはできない自分との出会いは新鮮でした。気づくと男ばかりの柔道部に入部していました。強豪大学ではありませんでしたが、先輩たちはそれなりに強く、みんな一生懸命。男所帯で毎日雑巾のように投げられていたら、気の毒に思ったらしい女子が一人また一人と集まってきました。そう、女子柔道部の爆誕です。主将は雑巾こと私が務めました。女子部員7人で夜行バスに乗ってインカレ参戦、当時は入場行進があり、日本武道館の畳に上れるのは補欠を含め6人までなのに、よーく数えると7人だったのはわが大学です。時効でしょう。
大学を卒業するとき、ああ、やっぱり柔道だったな、と思いました。
でも、柔道だけじゃなかったな、とも思いました。
大学卒業後、ケガの多い選手だった私は、柔道整復師となりました。これまた業界では厳しいことで有名な整形外科で10年ほど修行したのち、教職に道を求めました。現在は縁あって日本体育大学に奉職、柔道整復学と教育学で教鞭を執るほか、複数の大学で柔道を教えています。いつも遊んでくれる学生のみんな、ありがとう。
研究者としては、「ほねつぎ」としての柔道整復師を教育学的に解釈することをテーマとし、本を書いたり論文をまとめたりしています。最近は、嘉納柔道思想にも大きな興味を持っています。学びたいことがたくさんで大変です。現在は全日本柔道連盟医科学委員会の特別委員としても活動しています。TOKYO2020大会には、医療補助スタッフとして協力することができました。佐々木先輩の背中を追い続けた時期がたしかにあった私には、「オリンピック」に参加できたこの経験が、ひとつの節目となったような気がします。また、ライフワークとして、審判と形競技に取り組んでいます。審判も形競技も失敗が許されません。どうやら私は、選手時代同様、「畳の上で緊張する」のが好きなようです。
私は強い選手ではありませんでした。華々しい成績は、次に登場する堺千陽さんをはじめ、他の執筆者の皆さんにお任せしようと思います。でも、柔道が好きで、今もこうして柔道に携わり、いい汗をかいたら、いい審判ができたら(できなくても)、仲間と一杯やる。恩師、先輩、後輩、仲間、教え子、丈夫な身体、人生の軸。有り体な言葉ですが、柔道を通じ、多くの素晴らしい出会いに恵まれたことに感謝します。
駿河の国、力士志望のごはんおかわり少女は、こうして柔道沼のお酒おかわりおばさんとなりました。幸せな人生です。
次回は、稲川さんの地元である東海地区で活躍している、堺千陽さんが登場します。