まいんど vol.43 全日本柔道連盟
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接戦の時代柔道定期戦のはじまり草創期総合定期戦のはじまりことから、単独の定期戦にとどまらず、多種目にわたる総合定期戦をやろうという機運が高まり、両大学当局も学生の熱意とその教育意義を高く評価し、学生スポーツの向上と親睦を深めることを目的として、1956年(昭和31年)5月18日甲南大学において『甲南大学対学習院大学総合定期戦覚書』が調印され、同年、学習院大学において第1回定期戦が開催されるに至った。学生間では、それぞれ通称「学習院戦」「甲南戦」と呼ばれ、毎年交互に当番校を受け持ち開催している。柔道部の定期戦は、1955年(昭和された。定期戦が始められた経緯は『学習院大学柔道部120周年誌』によれば「甲南大・森本力主将からの申し入れがあり、本院・梅川均主将が折衝を行い第1回定期戦が実現した。」とある。この定期戦は、公式戦(レギュラー戦)と親睦戦で実施され、この時の公式戦は10人戦で行われ甲南大が4対2で勝利した。この時の学習院大学のメンバーを見ると七将で嘉納行光氏(故・講道館名誉館長、昭和31年卒)が出場されている。柔道定期戦の第2回は1956年(昭和31年)3月7日に学習院大学において開催され、学習院が4対3で勝利した。同年5月に総合定期戦が始まったため、1957年(同32年)3月7日開催の第3回柔道定期戦が総合定期戦の第1回となった。これに関しては『甲南大学柔道部記録ノート』に「第一回甲南大学対学習院大学総合定期戦(通算三回)」との記載がある。これは年度では1956年(同31年)度になるため第3回柔道定期戦が総合定期戦の第1回である根拠となる。第3回も学習院が勝利した。第4回定期戦より開催時期を秋とし、1957年(同32年)10月22日に開催され、その後は概ね11月の開催となり、開催場所も両大学において交互に開催し今日に至っている。第5回定期戦までは遠征したほうが負けるという結果で、第5回までの戦績は3勝2敗で学習院が勝ち越している。1959年(同34年)は甲南大学柔道場改築のため中止となり、1960年(同合定期戦第5回)に甲南が勝利し、以後甲南が1979年(同54年)の「引き分け」を挟み、2024年(令和6年)の第69回柔道定期戦まで、61連勝するのである。1960年(昭和35年)以降、学習院の勝利はないが、この後、およそ10年程は内容的には接戦となった年が多い。ちなみに、1962年(同37年)は甲南が関西学生柔道優勝大会で6位になり、全日本学生柔道優勝大会に初出場している。この年の定期戦は4対4で甲南の内容勝ちである。この時の様子は『甲南大学柔道部記録ノート』によると「一本勝ちの多い我部の勝ちにはちがいないが……。4―1とされたときにはどうなるかと思ったが、3連勝してやっと逆転勝ち……。」とある。翌1963年(同38年)、甲南は後一歩で全国大会出場を逃したが関西7位である。この年も甲南が4対3で勝利したが、接戦であった。その後、甲南は関西ベスト8に定着し安定した実力を有するが、1968年(同まっている。『学習院大学柔道部120年周年誌』によれば、この頃、学習院もチーム力が向上し、戦後最初の全盛期を迎え、東京選抜学生第二部優勝大会で優勝や準優勝をする等、毎年好成績をあげていると記されている。高いレベルで両大学が競い合った時代である。同40年代1952年(昭和27年)以降、学習院大学・甲南大学両大学間でいくつかの運動クラブが独自に定期戦を行っていた。その後、各運動クラブが参加する運動競技総合定期戦の開催となるが、その経緯は、両大学の学生より、両大学のスクールカラーと学生気質が大変よく似ている▲総合定期戦60周年記念祝賀会集合写真(2015年/平成27年)▲第1回柔道定期戦の集合写真(於:甲南大学・1955年/昭和30年)両大学のスクールカラーと学生気質がよく似ていることから行われてきた学習院大学と甲南大学の定期戦。70周年を迎えた両校の柔道部の定期戦を紹介します。(文・甲南柔友会会長 光本秀行)学習院大学×甲南大学22まいんど vol.4343年)頃までは内容勝ちもあり点差は詰30年)3月7日に甲南大学において開催35年)10月29日に第6回柔道定期戦(総を伝統歩く

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