両校定期戦の陰に嘉納先生と平生先生の交流2回の中止も今年70周年を迎える灘中学校高等学校と甲南中学校高等学校との定期戦は、例年6月半ば、高校県総体の実施基準日の翌週に行われています。定期戦の歴史につきましては、甲南中学校高等学校長、山内守明先生が校内文集「秀峰」に掲載された文章を一部引用しながらご紹介いたします。もともとは旧制甲南高校が浪速高校と定期戦を行っていましたが、学制改革によってなくなってしまいました。時は流れ、新制甲南高校の自治会委員長の石井一二さん(後に政治家になり環境政務次官・外務政務次官等を務められました)が中心となり、全校生徒が一つになって応援する定期戦の相手として、中高を併設し生徒数もほぼ同じ灘校に求め、1953年(昭和28年)に開催される運びとなりました。第1回は灘校で、第2回は甲南校でというように、交互に会場を変えて定期戦が行われました。現在もそのスタイルは継承されています。石井さんのご尽力で始まった両校定期戦ですが、その陰には灘校の創立に尽力され、顧問を務められた嘉納治五郎先生と、甲南の創立者である平生釟三郎先生、お二人の交流があったそうです。お二人ともヨーロッパの教育視察を行われて、教育によって良い社会を創ろうという強い思いがおありになったそうです。嘉納先生と平生先生との交流は、1926年(昭和元年)2月に始まりました。平生先生が東京小石川の嘉納先生の自宅を訪問されました。平生先生はスポーツの持つチームワークやフェアプレイの精神を、甲南校の教育に取り入れることを考えておられました。また、武道を通して精神修養の補助とすることを考えられており、柔道を教育に取り入れることが有効かを嘉納先生に問いかけに行かれたそうです。嘉納先生は、柔道の精神である「精力善用(自分の力を最大限に活かして世の中の役に立つために能力を使うこと)」と「自他共栄(世の中の人と助け合いともに成長すること)」を説明されるとともに、教育についての談義もされ、画一主義の教育を排し、個性を尊重した教育の重要性を説かれました。「精力善用」、「自他共栄」は灘校の校是にもなっております。当時官立の学校では画一的な教育を行っていましたので、教師を育成する東京高等師範学校の校長である嘉納先生が、個性尊重という考え方を大切にされていることに平生先生は大変驚かれ、感銘を受けられました。翌1927年(昭和2年)には、嘉納先生の推薦を受けた後藤素直先生が甲南に赴任され、柔道を授業に取り入れることとなりました。その後、嘉納先生は国際オリンピック委員会の委員として、1940年(昭和力的に行われ、平生先生は文部大臣として東京大会組織委員会に係わられて、ともに開催に向けて尽力されました。残念ながら日中戦争の激化によりオリンピックを返上することとなりましたが、このように平生先生と嘉納先生は旧知の仲でもあり、また教育によって日本を良い国にしようという思いが同じでした。定期戦が始まったのは戦後になりますので、定期戦を発案した生徒たちは平生先生、嘉納先生の関係を知らずに両校の定期戦が始まったことになるようです。そのような定期戦ですが、今年で70周年を迎えます。阪神淡路大震災のあった1995年(平成7年)と、コロナウイルス感染拡大の影響のあった2020年(令和2年)は中止になりましたが、その他の年は規模の縮小こそありますが、開催されています。定期戦の呼び方は両校で異なり、灘校は「甲南定期戦」「甲南戦」、甲南校は「灘甲戦」と呼ぶそうです。実施種目は、陸上競技、水泳、野球、サッカー、硬式テニス、バスケットボール、バレーボール、バドミントン、卓球、剣道、ラグビー、そして柔道です。それぞれ、中学の部と高校の部で、両校の代表選手が熱戦を繰り広げます(ラグビーは高校の部のみの実施)。全校あげての281953年(昭和28年)から行われ、今年70周年を迎えた、灘中学校高等学校と甲南中学校高等学校との定期戦をご紹介します。(文・的場久剛/灘中学校高等学校教員)まいんど vol.4115年)の東京オリンピック日本誘致を精今年70周年を迎えた定期戦伝統歩くを
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