まいんど vol.40 全日本柔道連盟
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――柔道を始めたきっかけは?――中学時代に一気に飛躍しました。――大学は天理大学へ。――社会人になってからは異なる職種でキャリアを重ねました。――あらためて「柔道の魅力」とは?「4歳の時、父がJICA(国際協力機構)から中近東ヨルダンに派遣され、家族5人アンマンで暮らすことになり、現地で指導されていた永吉勝憲さん(明治大学OB)の教室で柔道と出会いました。友だちと一緒に柔道衣をまとい、帯を結んだ姿を鏡で見るだけで強くなった気がしました。先生から「柔道は体が小さい人でも大きい人を投げられる」と教わり「いつか自分も大きな人を投げてみたい」と思うようになりました。小学2年の時、父の任期が終わり、両親の郷里である旭川に移りました。兄が近くの柳柔会高畑道場で柔道を始め、送り迎えに付き添ううちに師範の高畑勝彦先生から勧められ、私も始めました。ヨルダンの練習とは雰囲気が違い、全道や全国で勝つことを目指して、時には涙を流しながら相手に立ち向かう先輩たちに圧倒されました」「中学生の頃は、近くの旭川大学高校に定期的に出稽古に通っていました。全国女子体重別選手権の決勝は、全国中学校柔道大会で負けた松田邦恵さん(当時沖学園)と。「今度こそは」と、無我夢中で戦ううちに優勝していました。松田さんとはその後も全日本ジュニア決勝で対戦するなど、良いライバルでしたね。追われる立場になり多少戸惑いましたが、次の試合に向けてしっかり準備するスタンスは、変わりませんでした。家では誰も柔道を話題にせず、「オン」と「オフ」をしっかりと区切ることができたのも良かったと思います。高校では、普段は朝練をして、夕方に練習。試合が近くなると夜の練習も加わる。稽古三昧でした。クラスは全部で29人のうち、女子は4人。体育科だったので皆がいずれかの部活に入部しており、常に目標に向かい互いに高め合う、仲の良いクラスでした。合宿や大会に参加する機会が増え、学校で過ごす時間は短くなりましたが、飛行機の中や宿泊先で試験勉強し、成績は常にクラスでトップでした。柔道を理由にして勉強を疎かにしたくなかったのと、同じ学校で弓道部だった双子の姉に負けたくなかったのもあります(笑)。当時の目標は、世界選手権やオリンピックに出ること。谷亮子さんとも対戦しました。練習では何度も胸を借りていましたが、実際に試合すると、駆け引きがとてもうまい。奥深さを感じました。強い選手たちと過ごすなかで、自分の引き出しを増やす、そんな時期でした。「それまで1本3~4分だった乱取が、天理では7分。びっくりしました(笑)。藤猪省太監督から、しっかり組んで相手を動かし捌く、天理の柔道を基本から教わり、自分の柔道がさらに大きく膨らんだように思います。転機は3回生の時。右膝の前十字靱帯を断裂し、手術、リハビリと長期間柔道ができなくなりました。退院後、だんだん歩けるようになり、再び乱取ができた時には、『柔道をできること自体が幸せだったんだな』と、こみ上げるものがありました。ただ思うような柔道ができなくなるなか、柔道を離れて新たな世界を見てみたい、柔道で培ったものを社会に還元したいという気持ちが強くなり、競技は大学で区切りをつけました。「旭川に戻り、まず自衛官になりました。それまで人生の核だった柔道がなくなるなか、自分は何をやりたいのかを模索する期間になりました。1年経った頃『子どもに体育を教えたい』という気持ちが芽生え、2年の任期が満了したところで退職。25歳から33歳まで、幼児から小学校6年生を対象にした体操教室で体育専門指導員を務めました。器械体操を中心に何千人もの子どもたちの指導を行いました。体を動かすことが得意な子もいれば、鉄棒を見るだけで泣く子もいました。少し背中を押してあげることで自発的に行う勇気が出て、一人でできたことに喜びを感じ、自信を持つ。そしてもっと『上手になりたい』と進む。自分が柔道で経験してきたことと同じだと感じました。この頃は、子どもたちの無限の可能性をどこまで引き出せるか、常に考えていました。そんななかでもっと子どもを直接的にサポートしたいという気持ちが起こり、進んだのが児童指導員です。複雑な事情により児童養護施設で生活せざるを得ない子どもたちが自立できるよう日常生活から支援を行っています。心に傷を抱えている子や自己肯定感が低い子も多く、日々接するなかで信頼関係を築き、心を開いてもらうことを意識しています。自分自身の心を開く。しっかり話を聞く。柔道で培ったコミュニケーション能力が生きています。生徒同士の上下関係、先生との関係、それぞれ間合いが違うし、言葉遣いや気遣いも変わる。海外の選手との交流では、ジェスチャーだけでコミュニケーションすることもしばしばでした。自分の武器になっていると思います」「柔道は『生きる力』を与えてくれます。人生は楽しい時ばかりではありません。悩んだ時、苦しい時、柔道で得た経験や寄り添ってくれる存在が、次第に気持ちを楽にしてくれる。不安を解決するきっかけになり、這い上がり、一歩を踏み出す勇気をくれます。『ピンチをチャンスに』という言葉がありますが、柔道はそんな力を与えてくれるような気がします。私は、これからも子どもたちが身に付けた力を良い方向に活かすことができるように、そして、周りの仲間を思いやり、互いに切磋琢磨しながら成長できるように、子どもたちの傍でそっと見守っていきたい。そのためには私たち自身が子どもたちの良きお手本となることが必要だと感じています。自分自身を見つめ直しながら『精力善用自他共栄』の心を持ち続けることができるよう心掛けていきたいです」柔道は生きる力を与えてくれる▲高校2年の時にアメリカ国際で優勝を果たした倉持さん▶︎恩師高畑先生を囲んでPROFILE倉持亜佐美 くらもち・あさみ1982年生まれ。北海道室蘭市出身。父親の仕事で赴いたヨルダンで柔道にふれ、帰国後、旭川市の柳柔会高畑道場で本格的に柔道を始める。永山中学3年の1997年、全国中学校大会48㎏級3位。さらに全日本女子体重別選手権で優勝。旭川大学高校(現・旭川志峯高校)では全日本ジュニア体重別選手権2連覇。アメリカ国際優勝。天理大学を卒業後、自衛官、幼児児童体育専門指導員を経て、34歳から児童指導員に。現在は、社会福祉法人児童養護施設旭川育児院で係長を務める。34中学3年で全日本女子体重別選手権優勝。その後、怪我をきっかけに新たな道を模索し、児童指導員として故郷で子供たちを支える、倉持亜佐美さんを紹介します。まいんど vol.40FILE.25やわらたちのセカンドキャリアやわらたちのセカンドキャリア〜私たちの選択〜〜私たちの選択〜倉持亜佐美さんが選んだ道児童指導員

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