まいんど vol.33 全日本柔道連盟
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▲今年の勝ち抜き戦の様子明治36年から続く最古の定期対抗戦伝統歩くを『日本最古の定期対抗戦』と言われる、学習院高等科と筑波大学附属高校の総合定期戦。119年の歴史を持つ伝統の対抗戦をレポートします。(文・加納幸喜 広報委員)華族の教育機関として創設された「学習院」と日本初の中等教員養成機関「高等師範学校」。それぞれをルーツとし長い歴史を持つ学習院高等科(以下、「学習院」)と筑波大学附属高校(以下、「附属」)には毎年6月、母校の名誉をかけて戦う一大イベントがある。それが〝日本最古の定期対抗戦〟とも言われる総合定期戦である。(学習院側は「附属戦」、附属側は「院戦」と呼ぶ)この定期戦は両校の各運動部(学習院女子高等科を含む)が19種目で対戦し総合優勝を争うもので、その起源となるのは明治30年代に始まった柔道、野球の対抗戦。のちに剣道、陸上、弓道、水泳などの種目が加わって現在の姿に発展したという。柔道対抗戦の成り立ち学習院と附属はもともと柔道と縁が深い。柔道の祖である嘉納治五郎師範は講道館を創設した明治15年、学習院の教師に就任し(のちに教頭となる)、翌年には柔道が学校の正課として採用された。一方、明治26年には高等師範学校の校長に就任、その重責を断続的に3期23年半にわたって務め、柔道を始めとしたスポーツ教育に力を注いだのである。そんな2校の対抗戦の始まりは明治27年(1894年)の高等師範学校の道場「右尚館」の開設記念試合といわれる。中学生同士(旧制中学は6年制または5年制であったため、いまの高校生世代と考えられる)の個人勝負の形式であった。嘉納師範の繋いだ縁や当時ともに官立(学習院は宮内省所管、附属は文部省所管)であったという背景を考えると、この2校が試合を行うことは自然な流れだったのかもしれない。その翌年からは学習院主催の柔道大会において10人制の勝ち抜き戦「学習院-東京府下各校連合軍(内、附属中3名)」(明治28年)、「学習院-附属(5名)・講道館(5名)連合軍」(明治32年)などが行われ、明治36年には初めて学習院と附属が単独チームとして対戦した。しかし、この頃まではOB(高等学校生)も出場していたため実力差について論議され、明治38年以降は中学同士の対抗戦として定期開催されることとなった。当時のルールは15人制の勝ち抜き戦で勝敗の基準は一本勝ちのみであった。この対戦は大いなる盛り上がりを見せたようで、『学習院柔道百二十年史』(学習院柔桜会学習院柔道百二十年史編纂委員会2005)には「附属戦は府下に鳴り響く柔道大会の華」であったとの記述がみられる。幾度の中断を乗り越えて順調な船出となった対抗戦であったが長い歴史のなかでは何度かの中断と復活が繰り返されることになる。最初の中断は大正6年。あまりにも学生が熱狂して弊害があること、選手の学業不振、部員不足等の理由で学習院側から申し入れがあった。対抗戦はその後開催が見送られる事態に陥った。最大のライバルとの対戦機会を失い、落胆する様子が附属の記念誌にこう記されている。「両校の試合が中止されて以来は、全く部の生命と云ふものは無くなり、柔道部は年々衰微に傾いた。」(『桐陰会雑誌』84号、大正14年12月)一方の学習院側も喪失感を同じく感じていて、中止から8年後の大正14年、双方の教師・先輩の間から対抗戦復活の機運が起こり、幾度かの交渉を経て、ようやく12月に実現に至った。中断は辛いことであったが逆の作用ももたらした。「附属・学習院対抗戦は、双方にとって不可欠のものであることが永年の中断の後いよいよ両者によって等しく認識されたのである。」(『桐陰会柔道部百周年記念誌』(同編集委員会編)1994桐蔭会柔道部史戦前史より)昭和に入ると今度は戦争が影響を及ぼす。太平洋戦争開戦後も対抗戦は実施されていたが悪化する戦況に伴い、昭和19年には再び中断。敗戦後はGHQの武道禁止令によって柔道部の活動は禁止され受難の時代となった。昭和25年になり、ようやく学校柔道が認められると両校はいち早く柔道部(当初は柔道同好会として)を再興。使用できる道場がないため授業後の教室に畳を敷いて稽古する状況からの再スタートだったという。その2年後には新制高等学校による対抗戦(10人制勝ち抜き戦)が復活。昭和30年頃からは10人制の勝ち抜き戦に加えて点取り戦も行うようになり、当初は勝ち抜き戦の勝者を優勝としていたが、後に勝ち抜き戦・点取り戦で1勝1敗になった場合には3人制の代表戦(点取り戦)を行い、それでも引き分けであったら1人の代表戦を決着がつくまで繰り返すという規定に改められ、それが現在まで引き継がれている。講道館と縁が深い両校だけにルールは一貫して講道館ルール(技あり以上)を採用し「一本をとる柔道」を継承している。(選手の人数はその都度協議して決定している)掛け替えのないライバルとの対戦は年々盛り上がりを見せたが、昭和後期になると双方ともに部員の減少に頭を悩ませるようになる。それは対抗戦の試合記録からも見て取れ、10人戦が組めずに5人~7人制の記載が多くを占めるようになったのである。平成になるとその傾向はさらに拍車がかかる。平成13年にはついに学習院側の部員が1人となってしま22まいんど vol.33

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