柔道を始めたきっかけは、お兄さんが柔道をやっていたから、それで家の近くの警察の道場で始めたとのことでした。しかし、簡単に道場に入れたわけではなく、最初は女子はいないからダメと言われました。それでも、お願いしてお願いしてお願いして…、入れたそうです。いまの時代とは状況が違っていましたが、それでも柔道を始めた理由は、「おもしろそうだった」からだそうです。また、当時は女の子が試合に出るチャンスも少ない時代でしたが、「男の子を投げるのは気持ちよかった」と笑っていました。そして、中学校までは地元(飛田給)の第七機動隊の柔道教室、調布市柔道連盟にも入り、講道館、三田警察署の柔道教室で毎日柔道の練習をしたそうです。三田警察まで行った理由は地元の警察道場で教えてくださっていた先生が異動になったため、先生を追って行ったのだそうです。「三田警察の道場が週2回、地元道場が週1回、その他の日は講道館に行って、日曜日は休み。で、たまに試合があって…」さらに、柔道だけではなく、小学校のときはソフトボールもやっていたそうです。「中学校に入るときに、親にどっちかにしなさいと言われて……、なぜ柔道を選んだかは覚えてないけど柔道を選んだ…」。子ども時代の何気ない選択。それが今日を決定しました。高校は埼玉栄高校に進学。現在は柔道の強豪校ですが、本松好正先生(前監督・故人)が柔道部に人を集め始めた最初の学年だったそうです。気になる戦績をうかがうと、1年生の金鷲旗大会はボロボロだったとのこと。でも、インターハイは2位だったそうです。大学は早稲田大学に進学。入学にはエピソードがありました。「最初は別の大学に行きたくて、高校選手権で優勝したらその大学にというお話があったので、それを目標に頑張って優勝しました。が、その話がなくなってしまいまして…」えー、まさか!? しかし、早稲田大学進学のチャンスがまだありました。「早稲田大学は高田馬場にあると思っていて、それなら家から近い、いいな! と。でも私が受験した学部は小手指駅でした(笑)。(稽古は高田馬場でしたが)」。大学での柔道は、団体戦は出ることはできても1回戦で終わり。練習は母校の栄高校や埼玉大学などへの出稽古中心でした。「大学時代の成績は、個人戦は3位で終わっちゃいました。すごくいっぱいケガをして、出られない年もあったんです……」と振り返っていました。大学卒業後は実業団へ。どうしてそこまでやりたかったのでしょうか?「高校だったら高校選手権があって、大学だったら大学の大会があって、実業団にも大会があって、全部に出てみたかった!」と。それでミキハウスに入社しました。「実業団の試合はいつも入賞。優勝はできなかった……、でも絶対入賞」。しかし、27歳のときにケガ等も重なり引退を決意。そこから、今日に至る選手引退後のセカンドキャリアを目指したのです。当時、実業団選手として入社した人には前例が少なかったそうですが、選手引退後、一般の社員として働きました。子ども服の販売、店長にもなりました。でも、そのときすでに自分の力で柔道整復師の専門学校に行き免許を取るという目標を立てていました。専門学校入学に必要な資金は、数百万円。簡単なことではありません。同席していた小池雅彦先生(以前、このコーナーで紹介させていただきました)は「彼女の努力を本当に尊敬しています。自分でお金を貯めて、柔道整復師の専門学校に3年間通って免許取って、すごい頑張り屋だと思うんですよ」と熱く話されました。その当時の思いとセカンドキャリアを考えている後輩のみなさんに参考になればと次のような話をしてくれました。赤岡志保(日本)柔道人THE柔道を愛する仲間たち柔道スピリッツでセカンドキャリア第18回 2022年7月、とあるレストランにて。――ところで、先生いま何段ですか?「いま五段です」――じゃ一緒です。「じゃ先に六段取ろう! ははは(笑)。私は取ります! だって黒帯より紅白の方が可愛いんですもの……」 明るく快活な笑い声。澄んだ声ではっきりと話し、聞いていれば、まっすぐな人柄と聡明さが伝わってきます。でも、柔道の基本の大切さを語る口調はとても真剣で、深い洞察力を感じました。 現役を引退後、柔道整復師の免許を取得し、現在、呉竹医療専門学校で教鞭をとりながら、柔道大会等で審判や救護スタッフとして選手や大会関係者のお手伝いも務めておられる赤岡志保先生を紹介します。(文=ピエール・フラマン/広報委員)PROFILEあかおか・しほ1975年5月12日生埼玉栄高校~早稲田大学卒業現在、呉竹医療専門学校教員講道館柔道 五段全国高校選手権優勝、ドイツジュニア国際3位、全日本学生体重別選手権3位、全日本実業個人選手権2位、皇后盃全日本女子選手権5回出場20まいんど vol.33
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