アメリカの生活習慣や文化に合った柔道指導のあり方を模索し、自身を育てた「天理柔道」を教え子たちに伝えたいと語る髙橋徳三さん。ロサンゼルスの道場で指導する傍ら、「SAKEMAN」として日本の蔵元から輸入した日本酒のプロモーション活動も行っています。第5回の今回は、「じっくり時間をかけることで本物の味わいを楽しめる点は、柔道にも日本酒にも共通する」と語る、アメリカの髙橋さんにお話を伺いました。
――柔道を始めたきっかけを教えてください。
近所の仲のいい友だちがいつも夕方になると「じゃあ、柔道やってくる」といなくなってしまうんですよ。それがあまりにも寂しくて、では僕もやろうとついていったのがきっかけです。後から、祖父が旧制の天理中学で柔道をやっていたことを知りました。柔道は、とにかくおもしろかったですね。先輩後輩もなく、とにかくいること自体が楽しい道場。和気あいあいとした雰囲気のなかで伸び伸びと練習していました。
――その後、天理高校に進まれた。
いきなり名門に入って、本当に苦労しました(笑)。規則正しくて上下関係が厳しくてもちろん練習は厳しくて、とにかく根性、根性。稽古内容はとにかく基本。二つしっかり持って投げ合うことを徹底する稽古です。
――新日本製鐵時代は全日本実業個人で2度決勝進出。キャリアが進むほど技に凄みが増しました。
小さい頃はとにかく楽しく、高校では「基本」の組み合って投げる稽古。この順番がうまくはまったのかもしれません。僕は身長が189cmあるんですけど、高校時代は体重が80kgしかなくて、細くて力もなかった。だけど大学で体の力がついてきて、高校までやってきた基本をパフォーマンスに繋げられるようになったんです。いまは小さい子でも筋トレをやり込んでガッチリした体の子がいますけど、それではパワーだけで勝ててしまい、大事なことが覚えられない。まず技をしっかり身につけて、筋肉は将来の伸びしろとしてとっておけばいいと思います。
――海外に出られたきっかけは?
31歳になり引退を考えていたときに、天理大のOB会がありまして。そこで細川伸二先生から、「ロサンゼルス天理道場」の師範の先生のビザが切れて日本に帰って来られるという話を聞いたんです。その場ですぐに「次は僕が行ってもよろしいでしょうか」とお願いしました。選手として母校の名を上げることはできなかったけど、この道ならば引退したあとでも、天理の名のもとで恩返しができると感じたんです。
――名門企業を離れ、海外で、柔道専任で生きるというのは大変な決断だったのでは。
……実は小さいときから映画の「スタンド・バイ・ミー」が大好きで、物凄くアメリカに憧れていたんです。大人になってすっかり忘れていたんですが、ロサンゼルス天理道場の話を聞いて、パッとそれが蘇った。中学の友だちに会うと「あの頃の夢をかなえたんだね」と褒めてくれるんですけど、そのために必死に努力したというわけではないのでちょっと申し訳なくなったりします(笑)。いまも「スタンド・バイ・ミー」の最中。ずっと、あのベース音が頭のなかで流れています。