20代半ばで学習院の教頭職に就いた嘉納治五郎は、院長(校長)との確執から海外での長期視察を命じされます。1889年の9月に横浜を出帆し、フランスやドイツを巡りました。そしてドイツ・ベルリンで約1年間、ドイツ語の勉強と各地の教育視察に明け暮れます。
*本記事は、和田孫博氏の文章をもとに再構成しています。
宗教、教育…渡欧で得た刺激の数々
嘉納は最初に訪れたフランス・リヨンの地で新築のサン・フルビエール寺院を見て、人々に及ぼす宗教の力を知ります。一方でパリ滞在中、熱心な信者のほとんどは高齢者で若い人々の信仰心が希薄なことに注目。「欧州のキリスト教は惰性で力を保ち、教育や思想の面では、宗教の力は弱まっている」という結論を嘉納は得たのです。
またフランス滞在中に、公教育省の初等教育局長ビュイッソンと交流。教育におけるライシテ(政教分離)の考え方を学び、大いに影響を受けたようです。のちに嘉納は「ビュイッソンは宗教によらない道徳教育を推し進める第一人者だ」と述べています。
また嘉納のベルリン滞在中に、宰相ビスマルクがウィルヘルムⅡ世と衝突し失脚するという政変がありました。これを受けて嘉納は「政治家も一度地位を失うと仕方がない。人間と生まれて偉大な仕事をするためには、なんとしても教育だと思うようになった」と語っています。
こうして各地を巡回している間、嘉納は「ヨーロッパではどの国も、表面は華美だが中身は極めて質素倹約だ」と気づきます。また、のちに「近年自分が説きつつある精力善用は一部分これらの観察に胚胎している」と述べているように、結果的にこの外遊は、嘉納の教育家としての思想の礎を築くきっかけとなったのでした。
ちなみに、嘉納はドイツ語には自信がなかったようですが、ドイツ人の英語に誤りが多いことに気づき「外国語を使って間違うのは当然で、語学は使い慣れて習得するものだ」と悟ります。その後、嘉納の英語は急速に上達したといわれています。
▶次回コラム第7回は、帰国後の嘉納を追いかけていきます。結婚直後に単身赴任と、めまぐるしい生活が続きます。
そして『怪談』で知られる明治時代の作家ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)や、文豪・夏目漱石との交流も。