プロフィール
池田 佐智子(いけだ さちこ/旧姓:関口)1969年 東京都生まれ
いけだ接骨院
講道館柔道女子四段
主な戦績:
1986・87年 都道府県対抗日本女子柔道大会 優勝(東京都チーム)
1987・89・90年 全日本強化選手選考会 66㎏級 準優勝
1991年 全日本女子体重別選手権大会 66㎏級 優勝
1991年 環太平洋柔道選手権大会 66㎏級 準優勝
こんにちは!池田(旧姓:関口)佐智子と申します。今回、増田仁子さんからバトンを受け、執筆させていただく事になりました。
JJ Voiceはいつも楽しく拝見させていただいています。仁ちゃん(増田)とは、全日本合宿で一緒に稽古に励んだ仲間です。よく稽古後のトレーニングはペアを組んでいた覚えがあります。彼女の妹が私と同じ大学に入学して意気投合した事もあり、現在でも家族ぐるみの付き合いをさせていただいています。
私は柔道経験者であった父の勧めで柔道を始めました。また、建築関係の仕事をしていた父が、江戸川区にある森田道場を建てた事がきっかけとなり、小学校4年生から森田道場へ通う様になりました。
この道場は礼を重んじ、柔道の基本(受身、打込、釣手・引手をしっかり持って技を掛ける)を徹底した昔ながらの柔道を教える道場でした。高校生までしっかり基本を学んだおかげで、大学に入って打込・投込(受身)で苦労した事はありませんでした(結構苦労している人が多い様ですね)。
大学を決める時、国際武道大学(以下、武大)に決めた理由は、朝練(ラントレ)の厳しさです。当時の大学では、柔道以外のトレーニングやランニングは自主性のところが多く、自分に甘い私は1人で自主的に頑張れる自信はありませんでした。武大では週4日、強制的にランニング(山から山へ、急な坂、長〜い坂や階段)をします。初めは全く付いて行くことができませんでした。悔しくて休みの日も1人でランニングを続け、先頭集団に付いて行けるまでになりました。
試合ではなかなか、「優勝」という頂点を取ることができませんでした。1年生の時、無差別級の試合があり、試合中に武大の師範であった松本安市先生(1960年東京オリンピック日本代表監督であり、天理大学を何度も団体優勝に導いた)が目の前で観ていて「みっともない試合をするな!」と怒鳴られてしまいました。その後先生に呼ばれ「勝ちたいか?」と聞かれ、「勝ちたいです!」と答えました。先生は「わかった。お前を大学卒業するまでに日本一にしてやる!」と約束してくれました。それから、当時の女子の監督の春日先生の許可を得て、先生とのマンツーマンの指導が始まりました。試合前は、先生の手料理で栄養会を開いていただきました。そして、大学4年生の全日本女子柔道体重別選手権大会、本当に優勝してしまいました。松本先生には感謝しかありません。
大学の同期は女子だけで16人もいました。沢山の仲間がいたので、辛い稽古も乗り越えられたと思います。今でも時々会ったり電話やラインをしたりして、近況報告できる仲間がいることが幸せです。
大学卒業後は、山形県教育委員会に2年間勤めました。その後、ケガが多かった私は柔道整復師の道へ進みました。その時修行していた勤務先は、板橋区にある高宮接骨院です。主人(大学まで柔道)ともそこで知り合いました。現在、江戸川区東葛西で『いけだ接骨院』を開業しています。
3人の子供にも恵まれ、3人とも私が通っていた森田道場に入門しました。いわゆる、柔道一家です。長女は大学まで柔道を続け、卒業後は柔道整復師の免許を取得し、働いています。長男は現在大学院に通いながら、実業団(いけだ接骨院)で上を目指して奮闘中です。次女は青春真っ只中、柔道漬けの大学生です。一歩一歩前進!日々成長を続けています。
私が嬉しいのは、3人とも柔道が好きな事です。それはきっと今までの、道場・中学校・高校・大学と恵まれた環境(先生方、先輩、同期、後輩)のおかげです。私も柔道を通じて沢山の仲間ができました。今でも試合場で会うと、とても懐かしく昔の思い出がよみがえってきます。私は今、ほとんど柔道衣を着ることはありませんが、子供達に負けないようにウォーキングをしたり、週4日プールで2km泳いで健康を維持しています。
最後になりますが、コロナ禍でここ数年当たり前の生活ができず、普通にできていた稽古や試合が行えず、辛く悔しい思いをした人がいると思います。しかし、その中でも今できることを続けて諦めずにやってきたことは、これからの未来へ向けて、きっと自分の力になると思います。日々、感謝の気持ちを忘れず、一度きりの人生、そして「柔道」を楽しんでください。
次回は、池田さんが国際武道大学時代の先輩にあたる清水昭子さんが登場します。